突きん棒漁とは・・・
荒海の中、船の船首の「突き台」に立ち、長さ5mもあるモリを振りかざし、水面を走るカジキを突く! という原始的であり、とても勇壮な漁。
経験のある人は皆、「3日でも突きん棒やれば、もうやめられん!」と言います。 経験なくとも1度見れば「やってみたい・・・」と男なら誰でも思うことまちがいなし。
突きん棒は、太平洋戦争中を除き、戦前から戦後、昭和40年頃までが最盛期でしたが、現在では全国におよそ100隻ほどを残すのみとなってしまいました。
このページでは、日本の代表的な伝統漁法、突きん棒漁を紹介します。
 
突きん棒船の特徴
@ 突き台
水面からの高さは約4m、台の幅は1〜2m。 この台の先に射手といわれるモリを投げる突き手が1〜2人が立ちます。 電気モリがなかった昔は、魚にダメージを与えるためと、モリが抜けないように、射手3〜4人が一斉に投げていました。
A 見張り台
この台の上には、舵、スロットル等、航海器具が設置されていて、ココで船の操縦ができるようになっています。 魚の探索をし、射手が突きやすいように船を操り、モリが命中すれば電気モリのスイッチングもします。
B 滑車
主に、冷蔵室から魚の出し入れをするためのもの。 その他、人力ではとても船に上げることができないような超大物(メカジキなど)を上げる時にも使います。
C げんもん
魚を上げる門。 マグロ漁船にもありますね。
その他
魚を保管するための船倉。ほとんどがイケス場を改良して作っている。 また、船尾には2本のアウトリガーを設置しており、魚の探索時、同時にカツオ、カジキの引き縄も行う。
 
魚種
主にカジキ類。
三陸沖では、メカジキ・マカジキ、伊豆沖ではマカジキ・クロカジキ・シロカジキ、対馬沖ではマカジキ・バショウカジキなど。 三陸のメカジキは大型で平均100〜200kg。
カジキ類の他に、サメ類、マンボウなども。
 
突きん棒の命!モリについて
上の図が、現在使われている電気モリ。 モリが魚に命中すると300ボルトの電流が流れるようになっていて、一瞬でカジキは仮死状態になる。 船上への取り込みが楽になった。
電気モリがなかった頃は、モリが命中した後も2〜3時間、大物は10時間近くも格闘していたらしい。 改良に継ぐ改良を重ね、突いたら先端のツバクロ(矢じり)部分が抜けるという現在の形のモリになったのが明治30年後半ごろ、それよりさらに昔のモリは「カスミモリ」という物でした。 このカスミモリは、棒と矢じり部分とが一体型であったため、魚が暴れると傷口が広がりやすく、特に大物のカジキは突きはしたものの、逃げられることが多かったという。
カスミモリ→キカイモリ→ツバクロモリと改良し、ツバクロモリに電流を流すようになった電気モリは、昭和30年後半ごろから使用するようになった。
左がツバクロモリ、右が台モリ。台モリにツバクロを装着すると
 
突きん棒漁の歴史
臼杵の突きん棒の歴史は、明治以前の記録がなく、どのくらいの歴史があるかわかりませんが、かなり昔から行っていたようです。 魚を突くという形では、明治以前より、常にモリを船に常備してあり、他の漁の合間にカジキを見つけると突く、といった形で行っていたと思われます。
臼杵以外の古い記録では、寛文(1660年ごろ)今の千葉県周辺にあった捕鯨から突きん棒に発展したといいます。これは「あてんぼう漁」と呼ばれていたらしく、たぶん突きん棒のことなのでは? これが正しいのであれば、千葉の突きん棒は、江戸初期ごろから存在していたことになるでしょう。 しかし、今のような形の突きん棒漁とは多少違っていたと思われます。

<明治時代>
大分の突きん棒漁が、本格的に始まったのは明治初期。
その頃は、帆と櫓(ろ)で航行する小さな突きん棒船で、豊後水道が漁場だったため、カジキの回遊がある夏期だけの漁でした。この頃に使っていたのがカスミモリ。
佐賀関の仲家太郎吉が漁場開拓した韓国沖で、明治17年、臼杵・中津浦の板井五三郎氏も、フカ延縄漁を成功させ、それに伴い、佐賀関、一尺屋、臼杵、保戸島の漁師が同海域、韓国沖に出漁するようになりました。
韓国沖では、フカ延縄とイカ釣り漁が主でしたが、明治30年、保戸島の漁師がイカ釣りの最中に偶然、カジキの群れ成す海域を見つけ、突きん棒漁もこの海域で始めたのです。
この韓国沖での遠洋の突きん棒漁が、船の改良、道具・モリの改良・進化となり、現在の突きん棒の原型になり発達していきました。
ちなみに、この頃に遠洋漁業が盛んになった理由として、遠洋漁の新造船に建造費の10分の1を政府が補助を出していたため。
明治34年には、大分から韓国沖へ出る遠洋漁業船の数は300隻を超えるまで盛んになり、明治30年後半では400隻以上にもなりました。
しかしこの時期、韓国との戦乱が起き、韓国沖への出漁船は徐々に減っていきました。
韓国沖の漁をあきらめ、船の改良・道具の進化もあって、遠くは台湾の南、バジー海峡へ行く船もありました。

<大正時代>
大正時代に入ると、漁船の動力化が進んだこともあって、突きん棒漁はますます盛んになっていき、周年操業を可能にし、突きん棒の漁場を、韓国、台湾を含む、壱岐、対馬、五島、紀伊、勝浦、伊豆、三陸へと漁場を開拓していき、各地元の漁師にも突きん棒漁を伝えていきました。 特に韓国の漁民は覚えが早く、1シーズン教えて大分へ帰る頃には、1日20〜30匹も捕っていたといいます。
ちなみに初期の漁船の動力化には、(株)日本水産が雇った千葉県の漁業者の成功も大きかったということです。
一時期、カジキが不漁の年があり、これがきっかけとなり、保戸島の突きん棒船は、マグロ延縄漁に切り替える者が多かった。 保戸のマグロ漁業は明治時代より行っていましたが、この時期より本格的に保戸島のマグロ漁業は盛んになったといえるでしょう。

<昭和時代・前半>
昭和になるとまた突きん棒漁は盛んになり、マグロ延縄と並び、突きん棒は大分の遠洋漁業の中心でした。
ある船では、北海道沖でクロマグロの大群に遭遇。 船にあった50本のモリをすべて使いきり、304匹のクロマグロを水揚げしたといいます。 台湾沖でも豊漁が続き、今ならニュースになるような巨大なシロカジキなどもよく捕れた。
12月〜2月は伊豆・銚子沖、3月〜4月は油津沖、6月〜8月は三陸沖、9月〜11月は韓国沖、他に9月〜4月は台湾沖で操業する船もあり、突きん棒漁は周年操業が主となりました。
しかし戦争が激しくなるにつれ、豊後水道一帯の航行が制限され、漁民も出兵などで突きん棒を含む遠洋の漁船は壊滅状態になってしまいました。
終戦後、船を建造し、突きん棒船はまた増えていきました。
しかし、この時期に韓国側から一方的な操業規制(李ライン)の設定によって韓国沖に出漁できなくなってしまい、周年操業が困難になり、さらに油津沖も不漁となり、また突きん棒船は減ってしまいました。
昭和31年、韓国沖、油津沖に代わる東シナ海の漁場を開拓しました。 9月〜11月は対馬・壱岐・五島付近に絞り、東シナ海では1月〜3月は魚釣島(尖閣諸島)近海、3月〜5月は草垣島近海。
東シナ海の漁は大成功を納め、これにより、またまた突きん棒漁は盛り上がり、昭和34年当時には、30トン級の大型突きん棒船は、70隻にもなりました。
この頃、中学校の校長の給料が3万円だったころ、突きん棒船の乗組員の給料は10万円以上だったといいます。

<昭和時代・後半〜現在>
昭和40年代に入ると、「大目流し網漁」、「大型巻き網漁」が始まったことで漁獲が激減し、突きん棒漁は大きな打撃を受けました。
当時、臼杵と並んで突きん棒が大変盛んだった千葉県房総の突きん棒船は、大目流し網の出現の影響で減ってしまい、周年操業する突きん棒船はなくなり、この時期より千葉県房総の突きん棒船は、季節的に漁をする形になりました。
もともと臼杵の突きん棒漁師との交流が深く、明治からの突きん棒の発展に共に貢献してきた千葉県房総の突きん棒船が衰退してしまったことは、残念でなりません。
隆盛を極めた突きん棒漁を脅かすほどの影響を与えた大目流し網とは、カジキを対象とした網目の大きい流し網漁で、その驚異的漁獲量だけでなく、この大目流し網を入れた場所には当分の間、カジキが姿を現さないという、突きん棒漁にとって最悪の結果になった。
幾たびの困難を乗り越えて何度も復活してきた突きん棒漁も、最新の大量漁獲の漁には勝てず、衰退の一途をたどり続けました。
この大量漁獲による突きん棒の漁獲量の激減、さらに、韓国沖の漁場も新たな規制ができ、種子島の漁場もロケット打ち上げに伴う海域の規制を受け、沖縄周辺海域も在日米軍演習で漁業規制を受け、臼杵の突きん棒漁業は苦しくなる一方でした。
昭和40年中頃から、それまでの木造船からFRP船へと進化していきました。
FRP船の特徴として、小型で軽量、船足が速く、小回りが利くことから突きん棒漁には大変有効でした。
不振続きだった突きん棒も、このFRP船の出現が唯一の明るい材料でしたが、突きん棒漁船の減少に歯止めを効かせることができませんでした。
臼杵の突きん棒船は、昭和52年には6隻にまで減りましたが、その後、20隻ほどまで回復しました。

平成に入り現在、対馬、勝浦、伊豆、三陸と、地元の突きん棒漁師たちが季節限定ではありますが、少数ながら続けています。
周年操業をやっているのは今や臼杵の突きん棒漁師だけになってしまいました。 その数もあと数隻残すのみ。 かつて、大勢の臼杵の市民に見送られながら出航した突きん棒船団の姿、光景は今はもうありません。

臼杵の突きん棒漁師たちを含む各地の漁師たちが、海図もコンパスもレーダーもない、自分の腕と勘だけを頼りに、大海原に漕ぎ出し、上げた功績には頭が下がるばかり。
目先の利益にも決して乱獲することのない漁法を続けた漁師たちを見習わなければなりません。
大量漁獲につい手が行ってしまう現在でも、突きん棒をやめられない漁師さんたちが頑張って続けております。
荒海にも突き台に立ち、走る船の上から魚を突く技術はまさに神業。 豪快で迫力のある伝統の漁法は、残していく必要があって、決して途絶えてはならないものです。

※一部歴史文中を、大分県臼杵事務所:編集「黒潮の狩人」を参考にしました。