『あなたに出会う確率』

 4月8日、快晴の高度1万メートル上空を飛行するジャンボジェット機内。

 離陸の緊張から解放され、くつろいだ雰囲気の中、一人、手を握り締め、こわばった表情でうつむくスーツ姿の男がいた。
 彼の名は真辺誠人(まなべまこと)、22歳。
 世慣れた人間なら、若々しい顔とおろしたてのスーツで、彼が入社間もない新入社員だとわかるかもしれない。

 本社での研修を終えての帰路途中というのに、彼はまだ肩の荷が下りずにいるのだろうか?
 いや、そうではない。
 彼は生まれて初めて乗った飛行機で、恐怖と不安と戦いながら、一刻も早く無事に目的地に着いてくれと心の中で懸命に念じているところなのである。

 東京から福岡まで所要時間は、約1時間半。

『背格好だけは人並み以上にデカイとに、中味はまるっきり小心者なんやけん』
 真辺の頭にカラカラと笑う母の顔が浮かぶ。
 クッソォオオ!!と思うが、怖さを紛らわす足しにはならない。

 自分を図体のデカイ子供にしか見てない母親を脳裏からふり払い、以前、雑誌で見た
交通事故に遭う確率…7000分の1
飛行機事故に遭う確率…100万分の1という稀少な数値を思い浮かべる。
 事故なんてありえないと思おうとして、真辺は、5歳のときに、父親の運転する車で交通事故に遭遇したことを思い出してしまった。
 粗こつ者で乱暴な運転をする母ではなく、真面目で交通規則を厳守する父の方が事故ったという事実は、7000分の1の確率なんて屁でもないと言っているような気がする。
 このぶんでは100万分の1でも安心はできない。
 真辺は、もしもが現実になったときのことをちらっと考え、めまいがしそうになった。


 つい2時間前、東京での研修の終了後
『福岡の歓迎会に間に合うように飛行機にしてますから』と、担当の女性社員からにこやかに言われ、飛行機のチケットを渡された。
 行き同様帰りも新幹線だろうと思っていた真辺は、まさか、飛行機は苦手なんですとも言えず、引きつった笑顔とともにチケットを受取っていた。
 小声で言われた『東京に出張でいらしたときは電話してくださいね』という意味深な誘いも上の空である。
 仕方ない。こうなったらこっそり飛行機をキャンセルして新幹線でと考えている真辺に、研修担当の今里庶務課長から
『真辺くん、福岡の横川部長からさっき電話がきたので、ちゃんと歓迎会に間に合うようにそちらにお返ししますからと言っておいたよ』
と、人当たりの良い笑顔で言われ、思わず『そ、それは、どうも、ありがとうございます』と、社交辞令で応えてしまい、さらに崖っぷちに…。
 追い討ちをかけるように、『ちょうど羽田方面に用事で行くからいっしょに行こう』と誘われ、真辺の逃げ道はなくなった。
 とんだ成り行きに為す術もなく、真辺は面倒見の良い今里氏の笑顔に見送られ、機上の人となっていた。

 それから30分、飛行機は快晴の中、順調に飛行している。
 特に揺れることもなく、確かに落ちる可能性など万に一つもないだろうと思うような快適さである。
 揺れ方で言えば、田舎の祖母の家近くを走る老朽バスの方がはるかにひどい乗り心地なのだが、飛行機を信用しきれない真辺にとって、地面という揺るぎない確かなものの上を走っているポンコツバスの方が絶対的に安心できる乗り物なのだった。

 いいトシして飛行機にビビるとは我ながら情けないと思うのだが、こればかりはどうしようもない。
 目を横にやるとそこは空の上なのである。窓際という最悪の席に座らされた真辺は外の景色が見えたりしたらパニックになりそうなので、シェードをきっちり降ろし、この状況をなんとかやり過ごそうとしていた。

 それなのに、真辺の頭は考えたくない方へとどんどん暴走していく。
 とうとう、高校1年のときに読んだある本まで出てきてしまった。
 普段読むにはもってこいの、とても素晴らしい感動のノンフィクションなのだが、こんな空の上では思い出したくはない、今から20年前の飛行機事故後の様子を詳細に記した本である。
 まるで自分が遺体確認の場に居合わせ、飛行機事故の恐ろしさをまざまざと見せつけられたような錯覚を覚えるほどのリアルな描写を思い出し、思わず身震いした。
 現実の死を考えることと飛行機事故の悲惨さが結びつき、少年の多感な時期の真辺が飛行機に乗るのは怖いと母に言うと、
『社会人になったらそんなこと言っとられんよ。お父さんだって急ぎの出張で何度も飛行機に乗ってるけど落ちたことないでしょうが。バカやねぇ』
と笑われた。
 息子が本気で怖がっているのにバカとはなんや!とデリカシーのない母に怒ったことを真辺は思い起こしていた。

 気がつくと、握りしめた掌が汗でベタベタになっていた。

「ご気分でも悪いんじゃありませんか?」
 横の座席の男性が真辺に声をかけた。
 単なる社交辞令にしては温もりのある声に思え、真辺はさっきまで気にもしてなかった相手に視線を向けた。
 隣にはごく一般的なスーツ姿の若い、と言っても真辺よりは幾分年上そうな青年が座っていた。
「顔色が悪いようですが」
 響きの良い声音で問いかける男の面立ちは優しげで、うわべだけの親切心からではないように見える。
「いや、な、なんでもないです」
 答える真辺の声はうわずってかすれ、何かありますといわんばかりである。
「そうですか。でも、もうすぐ客室乗務員がまわってくるようなので、何かあるようなら僕より彼女にお願いした方がいいかもしれませんね」
 男の丁寧で落着いた物言いに、対する我が身はなんて間抜けなんだと思いながら、真辺は前方をうかがい見た。
 すると、7、8列前の座席の横でカートを押して飲み物を配る女性の姿が見えた。
 彼女は狭い機内で、あれこれ注文を言う客たちをうまくあしらい、きびきびと取り仕切り、乗客の注文をこなしている。
 スゲェー…。
 飛行機が職場だなんて、乗っているだけで気が遠くなりそうな真辺には驚くばかりだ。

 しばらくして、カートとともに彼女は真辺の席近くにやってきた。
「お飲み物は何がよろしいでしょうか?」
 そう聞かれ、真辺は、飲み物よりもここで降りたいんですと言いそうになった。
 もちろん、どう考えてもその望みだけは叶うはずはなく、彼は力なく何もいりませんと答えた。
 コーヒーの代わりに笑顔で、とばかりに客室乗務員は満面の笑みを浮かべ、次の客へと移動して行った。

 …あと、半分。いや、あと5分で着くと思うことにしよう。
 だめだ、つい、時計を見てしまう。
 それよりも、ここを空の上だと思うからいけないのだ。予定通り新幹線に乗ったと思おう。そうだ、オレは博多行きの新幹線で快適に……ああっ、だっだめだ!
 真辺の内心の葛藤は、汗だけでなく手にかすかな震えとなって現れていた。

「初めてなんですね」
「え??」
「震えていますよ」
 隣の男の左手の人差し指が、真辺の左手の甲を間近で指差している。
 白く、すっと伸びた指に、きれいに切り揃えられた形の良い桜色の爪。
 男は、色黒で骨太の真辺の手と対照的な手をしていた。
 思わず開いて見た汗まみれの掌に、紙製のおしぼりが乗せられた。
「よかったら、お使いください」
「あ、ど、どうも」
 どうもで済ませちゃまずいよなと思いつつ、とりあえず開けようとビニール袋をつまむが、汗のにじんだ手でうまくいかない。
 クソッと力任せに破くと、中身が飛び出てしまった。
「うわっ」
 おしぼりが床に落ちる前に先に掴んだのは隣の青年の方で、真辺はその青年の手をしっかり握りしめていた。

 身体を寄せた男からかすかに、自分とは違う、清楚で芳しい香りがした。
 思わず嗅いだ好い香りに惹きつけられるような奇妙な感じ。

 軽やかに消えていく香りの中、人肌の温もりと感触の心地の良さを感じている自分にハッとなり、真辺は慌てて男の手を放した。
「すいません、オレったら不器用で慌て者で。そっ、その上、汗ベタベタな手でつかんじゃって」
 動揺する真辺に、男は穏やかに微笑みながら、気にせずどうぞと手にしたおしぼりを差し出した。
 差し出されたおしぼりはまだひんやりと冷たく気持ち良い。
 汗とともに全身を縛る緊張感が少し抜けた気がして、真辺はほっと一息ついて椅子に座りなおした。
 それから、仕切りなおしに小さく咳払いをして、隣の男に話し掛けた。
「…あの、…ありがとうございます」
 いえいえと男は何でもないことのようにさらりとかわした。
「だいぶ緊張されていたようですね」
「…ええ。恥ずかしいんですけど、飛行機に乗るのは初めてで怖くてたまらなかったんです」
「誰でも最初は緊張しますよ。僕も初めて乗ったときは、とても怖い思いをしました」
「えっ、そうなんですか?」
「小学生のときでしたけどね」
「そんなぁ。小学生なら飛行機が怖くても可笑しくないじゃないですか」
 クスッと小さな笑い声がして、からかわれたのかと思い横の男を見ると、優しく微笑み返された。
「今日は揺れもほとんどなくてとてもいいフライトですよ。これで乱気流に巻き込まれていたらたいへんでしたね」
「ら、乱気流って、やっぱ揺れるんですか?」
「揺れますね。下手したらからだが宙に浮かびます」
「ええっ!!」
「シートベルトをしていなければの話ですが」
「怖がらせないでくださいよ〜」
「大丈夫ですよ。飛行機が落ちる確率って宝くじで一億円を当てるより低いんですから」
「らしいですね…」
「そういえば、飛行機が怖いと思っている人はけっこう多いんですよ。試しにインターネットで検索したことがあるんです」
「へぇ〜」

 二人、たわいのない話をしているうちに時間は過ぎ、間もなく到着という機内アナウンスが流れた。
 
「あれっ、もう着くんですね」
「あとちょっとですね。…ああ、顔色もすっかりよくなってますよ。よかったですね。これで次からは、空の旅も大丈夫でしょう?」
「いや〜、大丈夫ってほどじゃないんですけど」
 行きは良い良い帰りは怖いで途方にくれた真辺だったが、はじめよりはどうにかマシな状態になっていた。
 ところが…。
「せっかくだから、降りる前に空からの眺めがどんなだか見てみてはいかがですか」
「えっ?!」
「大丈夫ですよ、ほら」
 男の白い手がスッと真辺の前を横切り、ザッとシェードの開く音がした。
 真辺の目に、夕暮れから夜へと移りゆく福岡の街並みが飛び込んでくる。
 そこには、驚きを驚嘆へと塗りかえるような素晴らしい光景が広がっていた。
「百道の上空付近ですね。ちょうどよかった」
 そこは海岸に沿って福岡の観光名所が点在する場所である。
 一際高く伸びたタワーや、色とりどりに色を変え輝く大小二つの観覧車は、空から見るとさらにきれいだった。
 まわりの建物にも人の温もりを感じるような灯りがともされ、おかえりという声が聞こえてくるかのようだ。
「日没から夜はこのコースの方がきれいですね」
 美しい夜景に見惚れる真辺に、男は声をかけながら、さりげなくシートベルト着用のサインが出ていることを教えた。
「空からだとこんな風に見えるんだ…」
「東の方の志賀島方面から進入するコースもあるようですが、僕はこちらの方が好きだなぁ」
 そう言って男は嬉しそうに微笑んだ。
「夢のようにきれいでしょう」
「ええ、本当に」
 眼下に広がる煌めく宝石のような光景は真辺の中の怖さや不安を見事に払拭し、代わりに穏やかな安らぎを運んできた。
 そして、ほんの2時間ほど前までは会ったこともない他人だった隣の男が、なんだかとても身近に思えた。


 19時35分の定刻通り、飛行機は無事に福岡空港へと降り立った。

 飛行機から降り、向かい合って立ってみると、男は横幅こそ真辺よりかなり細かったが、ほとんどかわらない背丈で
すらっとして均整の取れた体型をしていた。
 空港ターミナルの到着口で、男は、それじゃあと真辺に言って立ち去った。
 濃紺のスーツを着た高い背の後ろ姿が人込みに紛れていく。
 彼がエスカレーターを降り、地下鉄に向かっている様子を真辺はしばらく見ていた。

 ふいに、男の名前を知りたいと思った。
 なぜ、聞いておかなかったんだろう、と今ごろ気づき、真辺は走り出した。
 エスカレーターに急ぐが、 大きな鞄が邪魔をして、人の列の中、思うように先に進めない。
 さっきまでいっしょだった男は、ずっと先に行ってしまい、今にも見失いそうだ。
 真辺は人込みを避けてコンコースの端の方を走った。
 すると、間の悪いことに、置いてあった清掃用のバケツに足が当り、勢いよく蹴飛ばしてしまった。
 バシャッガラガラーーンとバケツの転がる派手な音がコンコースに響いた。
 通路を行き交う人々が、何事かと振り返っている。その中に、真辺が追いかける男もいた。
 数10メートル先で男は立ち止まり、こちらを見ている。
 足を止めた人々はすぐまた動き出し、人の流れの中に男の姿が紛れそうになる。
 真辺は急いで蹴飛ばしたバケツを拾い、困惑顔の清掃員に渡すと、今度こそ追いつくように一目散で男の所に駆け寄った。

「どうしたんです?」
 追いついた男は、息を弾ませ追いかけてきた様子の真辺を見て、不思議そうに訊ねた。
 男にどうしたと言われ、真辺は返答に詰まった。
 ここで、名前を教えてくださいなんて、高校生のナンパじゃあるまいし、なんかヘンじゃないか?
 困り顔の真辺に、男は機内で見せたように優しく微笑んで言った。
「その鞄の中に着替えがあるのなら着替えた方がいいですよ。ズボンの裾がビショビショじゃないですか」

 荷物を見ておきますからと言われ、真辺は男と地下のトイレに入った。
 大柄な真辺に、狭いトイレの個室は着替えにくく、うわっとか、おっとーとか言いながら替えのスーツに着替えでてきた。
 荷物とともに待っていてくれた男は、真辺が手にしたスーツのズボンを受け取り、持っていたティッシュで丁寧に濡れた部分を拭き取ってくれた。
「クリーニングにだせばシミにはならないと思いますが」
「ほんとにすいません」
 真辺はデカイ図体のくせに、消え入りそうな声で謝った。
「…困った人ですね」
「すっすいません。ホント、ご迷惑をおかけしてばかりで」
「違います。そんな意味で言ったんじゃありませんよ」
「え?じゃぁ」
 どんな意味が、と言おうとした真辺の右肩に男の手が置かれ引き寄せられ、唇がふさがれた。
 飛行機の中で香った男のあの好い香りがふわっと浮き立ち、真辺を動けなくする。

 洗面台の鏡に、斜めに向かい合って顔を重ねる男が二人、映っている。
 真辺にとって、同性にキスされるという経験は、飛行機同様、今日が初めてである。
 おまけに自分よりきゃしゃな男に唇を奪われると言うのは、かなりの衝撃だ。
 それなのに、そのまま優しく唇を重ねあっている。
 男は、意外なほど滑らかで柔らかな唇をしていた
 
 抱き合うわけでもない、舌先で舐められ唇が触れ合っただけのキスは、束の間で、耳にチュっという小さな音を残して消え去った。

 どうしよう、と真辺は思った。
 嫌悪感どころか、空から夜景を見たとき以上に夢心地に陥りそうだった。

 呆然と突っ立つ真辺に、男が声をかけた。
「そんなに困ったような可愛い顔を、僕のような男の前でしてはいけません。いくらガタイがよくても今のように隙を狙われることもあるでしょう」

 飛行機の中で親切にしてくれた男はゲイだったのだ。
 真辺はもちろんこれまで同性を好きになったことはない。
「オレは、あの、そうじゃないんですけど…」
「わかってます。もうお会いすることもないでしょうから、ご心配なく。これ以上せまったりはしませんよ」
 そう言うと、男は真辺を見ずに少しだけ笑った。
 その横顔が、これまで見せていた笑顔と違うことが真辺にもわかった。

 男は荷物を手にして、出て行こうとした。
 そのとき、真辺は自分が何をしようとしているのか、何をしたいのか、はっきりとわからないまま、すれ違う男の腕をつかんでいた。
 つかまれた腕を振りほどこうとせず、男は真辺を見た。
 さっき触れ合った男の唇にどうしても目が行ってしまう。
 真辺は、思わず握りしめた男のしっとりした手の感触がとても心地良かったことを思い出した。
 あのとき、空の上の怖さを一瞬忘れたことも。


 だが、飛行機の中でのあの短い時間は、もう決して巻き戻ることはない。

 小声ですみませんと言って、真辺は男の腕を放した。
 いいえと男は言って、何事もなかったかのような顔でその場を離れた。

 今度こそ、男は行ってしまった。
 
 ふいに携帯電話が鳴った。
 真辺は上着の内ポケットから慌てて取り出し、電話に出た。
 かけてきたのは会社の一年上の先輩だった。
 話ながら、かけてくるはずのない人のことを考えていた。
 
「なに、考えてるんだろ、オレ…」
 洗面台にもたれかかって呟き、一人苦笑した。

 ザッと顔を洗い、時計を見ると、歓迎会までいくらも時間がない。

 会場へと急ぐ途中、真辺は予測不可能な確率を思い浮かべた。
 詮無いその思いは、優しい香りの記憶とともに夜空へと消えていった。


 『あなたに出会う確率』 --- おわり

                                2005.5.15up