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2014年2月18日 追悼 土居喜久子さん

土居喜久子さんが亡くなられた。29日のことであった。あと一日で77歳に届くという日であった。 

私が始めて喜久子さんにお会いしたのは、1990年であるからもう24年前だ。夕方の外来診療が終わったころ、玄関から歩いて入ってこられた。痰がからんで苦しいという訴えであった。手元には県立病院神経内科からの紹介状も持たれていた。ALSで今後呼吸困難なども出る可能性があるので、対処してもらいたい、そういう文面だった。その後は坂道を転げ落ちるように病状が進行し、その冬には全く食べれなくなり、肺炎も起こすにいたり、入院してもらうことになった。60kg近かった体重も40を切るくらいに痩せ、自由に動かせるのは表情筋のみとなった。経鼻栄養を始め、肺炎の治療にあたっているとき、突然看護師の前で呼吸が停止した。経験不足から前もってそういうときにどうするかという話をしていなかったこともあってあわててバギングを行い挿管しようとした。顎関節が拘縮してマッキントッシュがなかなか口の中に入れることができず、やっとのことで狭いスペースで気管チューブを入れた。そして意識が戻ったとき、どうして助けた、死んだ方がよかったと喜久子さんに泣きながら言われた。喜久子さんが変わったのは、目でうつワープロ(タケダ理研製)を手に入れてからだ。どんどん意思を伝え、私たちもそれに答えた。私たちはこの病気を治すことはできないが、一緒に生きていくことを学んだ。四季折々の景色を楽しみに海へ、山へと皆で行った。しかし病院から最初に出るときに希望されたのは少しの間でも家に帰りたいということだった。そしてその願いはかなう。在宅人工呼吸という概念が特殊でなくなり、本田さんという在宅に先陣を切られた方が出て、ALSはここ大分では家で暮らす疾患となった。そして喜久子さんも自宅に戻られる。その後は夫の巍さんの体調不良に付き合って入院することはあっても、胆石や糖尿病などの合併症は出ながらも在宅にこだわり続けられた。在宅第一号の本田さんとともに土居さんご夫婦はそれぞれ副会長、事務局長としてALS協会県支部を立ち上げ、その運営に尽力された。年一回の総会の日は、県内、県外から多くの患者が一同に会する大イベントとなった。その喜久子さんから申し渡されていたことがある。ALS以外の疾患が出たときは治療を受けない、というものであった。内科治療までは否定されなかったが手術などの外科治療は受けないという固い決意を聞かされた。そのため一時ひどい胆石による胆のう炎を起こされたが、消化器内科的処置も拒否され、まるで昭和の医療だと思えるような治療でなんとか急場を凌いだこともある。この意思の強さが喜久子さんの真骨頂であった。巍さんの体調不良にともない、一人でも在宅を続けるという固い意志を持たれ、倫理委員会への提案書を書きとめられた。その実現のために在宅にSpO2や心拍数などの情報について異常値を通報できるシステムも作られた。この2月、そのことを議論していただく倫理委員会を招集することになっていた。その矢先、急変されたのだ。糖尿病が悪化するなかで肺炎が一気に全身感染症になりDIC、急性腎不全と進まれ、約2週間の経過で戻らぬ人となられた。最後の2週間、意識レベルも下がり、コミュニケーションもとれなくなった。喜久子さんは無念だったのか、あるいは満足だったのか。それは私もよくわからない。ただ弔問に伺った家でのお姿はなにか満足げなご表情だったようにも思う。喜久子さんの強い意志で葬儀遠慮となった。喜久子さんは最後まで喜久子さんらしいと思った。ALSを生き抜いた土居喜久子さん、ご苦労様でした。

参考図書 まぶたでつづるALSの日々 土居巍 土居喜久子 白水社 1998年