山本の主張

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2015年8月3日 東電経営陣強制起訴に思う  

小生、先週の検察審査会での東電会長等強制起訴議決に、思わず喝采した一人である。マスコミは、検察審査会は素人感覚でプロの判断を覆した、という論調が主流である。検察審査会による強制起訴が過去有罪につながっていないことをもって、検審制度が必要ないというような主張さえ提出されている。腐っているのは検察だけではないことを自ら証明しただけである。情けないことだ。 

小生は、以前から、JR西の強制起訴と、東電の件は違うと主張してきた。いかに生じた結果が甚大でも、全ての事故にトップが刑事責任を負うことはありえないと。旅客機機事故で引責辞任した社長はいても、刑事訴追された社長はいない。もしあるとすれば、現場が不安に思い、問題の解決を経営に求めるが、経営が恣意的に握りつぶすというような状況だけではないかと。その意味では、問題が現場で認識され、経営に持ち上げられたという経緯が見当たらないJR西の起訴は無理であろうし、その他の強制起訴事案の大半も、強制起訴に続く裁判の過程が恨みを晴らす手段ではあっても、法治国家である以上有罪に持ち込むというのは無理筋だと考えてきた。法的安定性とはそういうことである。

 しかし東電は違う。これははっきりと上に挙げた事象を体現した事件であるからだ。東電では明らかに津波の問題を認識していた。東北は過去何度も大津波を経験し、津波を認識することは常識の地であり、現に女川原発は、当時の社長白洲次郎の英断により、施設自体を13mかさ上げして立地としたのだ。そのため女川原発は津波が襲来したが施設を水没させることはなかった。また、同じ頃津波の情報を得た東海原発は、防護壁をわずかに高くして(完成したのは津波の2日前という)なんとか全電源喪失を免れているが、ここも福島なみの高さの津波が襲ってきたら太刀打ちできなかったはずであり、そう威張れるものではない。

 しかし、福島といえば、たとえば東海が破滅を免れた約5.4m程度の津波であっても全電源喪失は免れない事態であったはずである。なぜなら福島は海面5mの立地であり、なんらの防護壁もなく、非常電源施設は海沿いの地下にあり、かつ水密ではなかったからだ。今回15mの巨大津波が予見できたかどうかという議論がなされているようであるが、それは巨大津波で問題を無効化しようという謀略なのである。ここは巨大ではない津波であっても全電源喪失に陥るほど脆弱な施設だったことを忘れてはならない。

 津波は、決して風波のような短周期のものではない。短周期の風波であれば、波高5mであっても護岸で防御できるであろう。しかし津波は長周期というより、海面そのものが持ち上がる現象である。これは波などではない。海の盛り上がりであり、急激で過大な満潮のようなものである。したがってわずか5mといっても施設内は海水に覆いかぶさられるのである。東電は数年前に15mの津波の可能性が指摘され、巨大津波への対策をとらないまま311を迎えたのが問題のように言われるが、15mどころか5mでもアウトであったのである。また、5mでもアウトと正しく認識すれば、非常電源の位置を別に持つとかいくらでも金のかからない対策もとれたはずである。普通の神経なら、このような脆弱な状態のままにおくというのは物凄く怖いはずであるが、たかをくくったのであろう。15mの津波なんて千年に一回だろ。そんなのが俺たちがやっている間に来るわけねーよ、というように。 

わずか5mの津波でもやられる。それは決して千年に一回のレベルではない。そのことを正しく認識し、非常電源のバックアップを高台に設置するという対策をすれば、5mではなく15mにも耐えうる電源対策は可能だったのである。この極めて容易なかつ可能なことさえ対策をとらなかったこと、対策をとらない決定をしたのが東電経営陣である以上、この責任をきちんと取り上げるのは社会正義の上でも必要だと思うのである。でなければ、あらゆることが予見不能性の名のもとに免罪されることになるからである。別に罪に問いたいから言っているのではない。そのような緊張感がなければ、社会は不安定性を増すからだ。さきに旅客機事故のことを取り上げたが、もしあきらかに欠陥が分かっているのに、経営者が現場の反対を押し切って、飛行機を止めると会社が損をするからと無理やり飛ばして落としたら、それは経営者に刑事責任ありである。英国のコメット機が3機連続空中分解した事件でも、それはまさかの金属疲労という問題が判明する契機であったが、分かって飛ばしたわけではさすがにない。予想された危険性を無視していたのではなく、危険性が分からなかったのだ。その原因の判明のために、巨大プールを造り、コメットを水没させて与圧試験を繰り返し、1800回目の与圧で原因が発見されたのである。これこそが科学的態度である。 

このような未知の原因を確定するのは大変な苦労を要する。そのような事象に比べて、既知の問題への対策のいかに簡単なことか。津波というものの性状は判明している。まさか100mの津波は来ないだろうから、そこまでの対策をとる必要はない。15mの津波が来るかもしれないという危険が分かったとき、では今から15m以上の立地のかさ上げができるか?それは不可能だ。15mの塀で囲むか。15mもの水圧に耐えれる壁が果たして造れるか。かなり困難だ。もし造ろうとしたら膨大な資金が必要になる。東電は、おそらくそこで思考停止に陥ってしまったのだろう。何かもっと費用もかからず、有効な手はないか。真剣に考えたら絶対に何か浮かぶはずである。非常電源が脆弱である。これを安全なところにバックアップを造ろう。巨大な壁を作ることに比べたら、ないに等しい金額で可能だ。なぜそれが実現できないのか。小学生ではないのだから、論理的に考えたら、そう難しくなくその結論にいたるはずだ。まず緊急対策として最も費用対効果の優れた手をうつ。余裕があればより本質的な対策をしてゆく。これがもし破綻したら膨大な被害が予想される場合当然採る手段ではないか。

 その当たり前のことを東電はしなかった。別に経営者自体が思いつかねばならないのではない。経営陣が何か対策せよと鶴の一声を出せばすんだのだ。対策は膨大な資金がいると思い込み、そんな事態は起こりえないことに「しよう」と考えた。驚くべき怠惰と無責任さである。東海原発が極めて危なかった状況を知った当時の東海村村長が、わが国は、原発を持つ資格も能力もないと断言した。まことに正当な感想である。上記の推論を見れば、いかに東電経営陣の考えが罪深いか分かるだろう。そのことを糾弾する「素人」の検察審査会の結論は極めてまっとうなものなのである。

 これまでの検察審査会の強制起訴事案がすべて敗訴となってきたことをもって、検察審査会による強制起訴を無効化しようとする議論がある。怠惰であるが空気を読めるプロの検察にまかせておけば、企業活動や与党の政治活動は安泰であると思う方々には嬉しい議論であろう。しかし小生は思うのだ。この件だけは、これまでと違うはずだと。繰り返すが、この件は、15mの巨大津波だらやられたのではない。わずか5mの津波でもやられたのであり、その5mの対策さえとろうとしなかった、つまり、やる気がないからやられたに過ぎない。これは責任を免れない。もし5mの対策を取ろうとしたら、結果的に15mにも耐えうる対策は可能だったのである。責任を免れると考えた検察こそ、審査の対象とすべき事例ではないかと私は考える。東電とは別に、検察を強制起訴すべきである。そして次に問われるのは裁判所であることを判事は忘れてはならない。