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2002年 木星舎の夏


「2002年 木星舎の夏」

古野多鶴子(「博多版元新聞」より)

はじめてこの世界の入り口に立ったときのことを覚えている。
新聞広告の片隅に「編集社員募集」とあったのを見つけて,面接を受けた。灰色のビルの一階奥,灰色のドアの横に社名を大書した分厚い木の看板がかかっていた。
「文章を編むという仕事についてどう考えていますか」と問われた。
なんと答えたかは覚えていない。どうせロクな答えはしてないと思う。今だって,そんなことを訊かれたら返事に困る。でも,時々浮かんできてしまう。



2年後に結婚,会社を辞めて子どもを育てた。下の子が小学校に入った年に,編集の仕事に戻った。
灰色のドアの前に立ってから,あっさりと20年が経ってしまった。今,私は一人で出版事務所を開いている。昨年の春,アパートの一室を間借りしてはじめたばかりだ。中古のMACが一台,周辺機器とコピー兼ファックス,デスクと作業台を置いたら部屋の3分の1は埋まってしまった。
「文字通りのSOHOだね」
「ソーホー?ほらNYで芸術家なんか活動していた,あれね?!!」
「じゃなくて,Small Office Home Officeの略」
ハッハッ,だよねー。

社名は「木星舎」。どういうわけか困ったことがあると,いつもホルストの「木星」の下りがβエンドルフィンのように脳内に流れてきたから「木星舎」。社名が先に決まっていた。



最初の本は『緩和ケアをはじめよう』,終末期の医療をテーマにした。医師や看護師,ボランティアにそれぞれの現場から執筆してもらった。私は,一つのテーマに向けていろいろな立場の人が角度を変えて執筆する性格の本,「てんこもり」の編集が好きだし,執筆者と一緒に始めから一冊の本を構成していく作業が好きだ。今までもその類の本を作る機会が多かった。

とても無理をして企画で出した。お陰でそれまで会社で使っていた編集用ソフトが買えず,慣れないソフトを使った。私は化粧品の効能書きは熱心に読むけれど,マニュアル,説明書の類は絶対に読まない。が,この時ばかりは,隅から隅まで命がけで読んだ。

だから,緩和ケア研究会の第1回の年次大会に間に合うぎりぎりの線で印刷屋さんに責了のファックスを送ったときは,気絶しそうなくらい疲労困憊,ほっとした。そのせいかもしれないけど,中古のMACが先に気絶してデータが消えてしまった。私はもう一度気絶しそうになった。

一人で出版の仕事をするときパソコンは欠かせない。携帯電話も必携である。この二つのツールがあってはじめて仕事ができると自覚している。が,これが苦手!私がこの仕事に入った時は活版印刷,赤ペン一本でする仕事だったんです!だからパソコンを前にすると,進化の途中で置いていかれたヤンバルクイナのような気がする。(密林が恋しい!)



なるべくマニュアルを読まないから,必要最低限のことをその都度覚えている。例えばある朝パソコンを開こうとするとウンともスンとも言わない。「エッ,どうしたんですか」「嘘でしょう」「ダメ!今はダメ。今日は勘弁してよ」などとぶつぶつ言いながら機械の裏に潜り込んで配線を調べ,いきなり熱心にマニュアルを読む。揚げ句の果てに,友人に助けを求める。熱烈なMACの支持者である友人は,「またですか」と電話の向こうで冷たい声,それでも親切にすぐに来てくれる。パソコンの側で青くなって震えている私をしり目に,「可哀想に。植木を買ってきて水もやらない,肥料もやらないようなもんですねえ」とMAC君ばかりを労る。最近は少し賢くなって毎日必ずバックをとるようにしている。常識でした。

2冊目の本は死生学のエッセイだった。納得がいくまで丁寧に作ったが、現在絶版。事務所を立ち上げたとたんの不幸な出来事だった。プライバシーの侵害にあたると抗議を受けたためだ。文中に出てくる多くの人物の中の一人だったが,掲載許可がとれていなかった。触れた箇所は心やさし小さなエピソードだった。配慮が足りなかったと思う。しかし,本全体は優れた内容だっただけに残念でもあり,取次店や書店,関係者にご迷惑をかけることを思って眠れない夜が続いた。「社会的責任」、「人権侵害」、「道義的責任」、「表現の自由」から「誠意の見せ方」まで非日常的な問いかけに,出版の怖さを知った。

3冊目は『伝えるいのち』。長年,助産婦として女性の心身の変化を見てきた著者が若い女性が心身ともに未成熟のまま母親になる危機感を訴え,自分自身の内側のリズムをつかんだナチュラルな生き方を奨めるもので,曲がりなりにも母親をやってきた私は深く共感した。



今,4冊目,5冊目の本の製作に追われている。

出版は製作段階で一つの仕事を終えている。著者の意を汲んで,より完成度が高い構成を目指す。もちろん,その次にあるどのように売っていくが最大の目標にならなくてはいけないのだが,乱暴な言い方をすれば,それから先はギャンブルだと思う。だから面白い。読者を絞って作り上げた本が売れたときの「やったね」という快感は最高だろう,と思う。でも,よくはずす。

本当のところは,やっと2年目を迎えた私は,書店という広大な海を前に立ち尽くしている。本を売るのはとても難しい。

一人で出版の仕事をしているので,必然,製作段階に力を入れる。内容,文章,表現手段は様々だが,そこには執筆者の物語がある。たとえ図鑑であっても,ガイド書であっても,人生の断面がある。そこに思いを馳せ,最初で最良の読者として,編集者として本にしたいと思う。

4冊目の本は,黒田藩15代目の当主にあたる黒田長久氏の画集『鳥の詩』。親子2代にわたる鳥類学者であり,山階鳥類研の所長であった長久氏の鳥への憧れが精緻で美しい水彩画に溢れている。85歳になる黒田のお殿様の謙虚で清廉なたたずまいの端正さに,本気でまいってしまった。

もう1冊は,臨床心理士の末期医療に対する試み『死をみるこころ生を聴くこころ』。お得意の「てんこもり編集」である。死を見つめながら今を生きる患者に,緩和医療に制度的に組み込まれていない臨床心理士が,どこまで寄り添うことができるか,若い彼らの試行錯誤が眩しい。

でもこれ2冊とも9月に出さなきゃいけないのです。猛暑の上にも猛暑,ホルストの木星は火星になり冥王星になりブラックホールが見えてくる。暑い夏は当分続く。

Last Modified 2002/12/21
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