かわら版 平成25年5月15日号 その1



第37回都城市特別攻撃隊戦没者慰霊顕彰祭参加記


   日時 平成25年4月6日(土)10時30分より
   場所 都城市都島公園内特攻戦没者慰霊碑前
         (都城陸軍墓地)

1.序
例年通り2月1日付で都城市特別攻撃隊戦没者奉賛会会長池田宜永氏(都城
市(新)市長でもあります)より、福岡県偕行会長宛で昭和25年度の特攻戦没者
慰霊祭の開催の案内が参りました。
日時も同じ4月6日(土)10時受付、式典10時30分よりとなって居りますが、
早速偕行会長兼陸士57期生会九州世話人とも記して出席の返事を致しました。
現地都城で世話をしてくれて居た伊黒君(居合道十段の達人であった)が亡くな
り、小林市で支援をしてくれて居る緒方君は歩行困難で車椅子での入院中であ
り、元気な私が詣らねばならないとの思いがありました。
実はこの4月6日という日は昭和13年に母が、昭和23年に兄が亡くなった命日
であるので、福岡での墓参行事を行う為、当初は慰霊祭には欠席していたので
ある。ところが妻も昭和59年6月に急逝してしまっての後、「これではいかん」と
思い直して、毎年4月6日には参加して居ります。

2.説明
ここは勇名を誇った歩兵第23聯隊関係の英霊を祀る陸軍墓地であります。
戦時中都城には西と東の2飛行場があり、昭和20年4月1日に沖縄本島に米
軍が大挙上陸して大激戦となってからは、まず同年4月6日この西飛行場から
第一特別振武隊・林 弘少尉(20歳・陸士57期)隊長のもと最新鋭の四式戦闘
機(疾風(はやて))に250sの爆弾を吊した8機が発進し沖縄海上の米艦隊に
突入戦死したのであります。以後7月1日までの間に17次、79名の前途有望な
若者が戦局の好転と祖国の勝利とを信じつつ南海の敵を目がけて突進し散華し
たのです。

都城特攻隊の特色としては、特攻隊の編成人員に対して敵艦に突入できた特
攻戦死者の割合が高いことと、使用機種が全て当時の最新鋭機の四式戦闘機
「疾風」(はやて)であったことです。当初、特攻隊の掩護にあたっていた第百飛
行団は、特攻機の掩護や沖縄敵基地の制圧等の激しい任務により戦力を消耗
し、5月25日の航空総攻撃で出動兵力の大半を失いました。そのため、これを
補充すべく四式戦闘機装備の飛行第47戦隊が都城に配置され、特攻機の掩
護任務に就いたのですが、この戦隊も損傷が激しかったのです。

戦後32年、時あたかも戦死者の33回忌に当たって、遺族・元隊員を始め各界
の有志が市と共に慰霊碑建設を図り、昭和52年11月15日に建立されました。
加えて多くの戦死者を出した我が陸士57期生会では、生存同期生一同相計り、
この碑の向って左側に都城基地での戦死した同期生全員の名を刻んだ特別碑
を追加建立しました。奉賛会の会長は歴代の市長が就任され、4月6日(前後共)
は市の職員の方々多数が奉仕されて居られ、誠に有難い事です。
尚、出席の返事後、再度奉賛会長名で「当日『追悼の辞』を述べて欲しい」との
依頼があり、了承しました。


3.当日の状況
以前は航空便で宮崎に行き、バスにて都城へ、終点西都城駅からタクシーで会
場へ向かい、帰りは直会を市内ホテルで行った後、又宮崎経由で帰福していた
のですが、現在は九州新幹線が開通したので、鹿児島中央駅で日豊本線の特
急に乗り換え西都城行(帰路も反転で同じ)で日帰りが可能となりました。
4月6日は朝6時45分(さくら401号)発で行って10時07分には西都城駅着、
タクシーで会場に行って10時30分の開式には充分間に合った。
本年は桜がもう葉桜となって居り、天候は小雨模様ではあったが、式典中は曇と
なり一時晴間さえ見えたのは良かった。
最近でもこの慰霊祭には陸士の57期生は数人以上が集まり亡き同期生を偲ぶ
のだが、なんと今年は私1人しか居ない。宮崎県偕行会長(58期)の川野周平君
他地元の後輩数人は出席してくれて居た。後で聞くと大阪の藤井君は天候不良
の中、何とか飛び立った飛行機が宮崎には降りずに鹿児島に着陸した為間に合
わなかった由。式典の中では毎年行っている57期生による校歌合唱であるが、
肝心の57期は私1人なので、川野君他に応援をして貰ったが、その後数日を経
たずして川野君は急逝されたとの報告には驚きました。
この慰霊祭には本部から永代神楽料として30万円受領しており(都城・萬世・知
覧の各3基地にそれぞれ30万円)、その内から毎年3万円也を宮崎県57期会と
して納め、花輪も出して居るのです。今回はその他に近畿57期生会からの花輪
も飾られていた。


              式 次 第
                            10時30分より12時迄

  1.開  会
  2.黙  祷
  3.祭文奏上                  会長(池田宜永市長)
  4.追悼の辞                  偕行会代表兼57期代表として
                             菅原が述べた (下記掲載する)

  5.献茶の儀                  裏千家淡交会都城支部
  6.献  花                  (菊花をご遺族を始め全員で)
  7.来賓あいさつ                市議会議長
  8.献  詠  @ 弔特攻勇士        錦域会 
           A 戦没者追悼の詩     都城詩道会
  9.献  歌   
     (イ) 陸軍士官学校校歌(前に出て) 57期生菅原及び偕行会員にて
     (ロ) 加藤隼戦闘隊
        海ゆかば (前に出て)      菅原と上記の他に元隊員も一緒に
        同期の桜
  10.平和へのメッセージ           地元女子生徒
  11.音楽隊演奏                都城連隊演奏部
  12.遺族代表あいさつ        宮田氏(沖縄で戦死された56期の息子)
  13.閉  式
 

終了後、宮崎県陸士57期生会世話人緒方君(前記小林在・入院中)のお手配
により同君息子の嫁女が弁当を持参してくれたので、世話人・鹿児島県偕行会
麓川氏・宮田氏夫妻他と会食をして追憶を重ねた。あと麓川氏の車にて57期故
伊黒君宅に到り、御仏前に詣り思い出話を夫人と交わした後、西都城駅の15時
03分の特急で鹿児島駅へ。更に九州新幹線に乗車して18時37分には博多駅
に戻った次第である。



【追悼の辞】


 平成二十五年度都城特別攻撃隊戦没者慰霊祭が今年も行われるに当たり、
特攻隊戦没者及び掩護部隊の戦死・殉職者の方々に対し、関係者として謹んで
慰霊の辞を申し上げます。
 自衛自存の為立ち上がった大東亜戦争でありましたが、海軍のミッドウェー作
戦で敵の三倍の兵力で攻撃に向かったのにも拘わらず、予期せぬ不運で大敗し
たのを境として守勢となり、遂に昭和二十年四月一日には沖縄本島に敵大部隊
が上陸しその攻撃を受けるに到りました。既に対抗する艦隊の無い海軍は敵大
艦隊に対しては一機必中の体当たり特別攻撃を敢行する戦しか無く、これに協力
すべく陸軍航空も敵艦船を目標に特攻作戦を決行したのであった。ここ都城西飛
行場からは六十九年前の本四月六日、最初の陸軍第一次特別振武隊疾風四式
戦闘機八機が出撃されたのであります。以来七月一日まで十七次にわたる特攻
攻撃が実行されましたが、隊員の過半数の勇士の方々は二十歳以下の若人です。
勿論子供は居らず、御両親も既に亡くなられています。当時共に戦った私共は戦
友として慰霊に心を込める次第であります。
 出撃された四月にはここ都城にも桜が咲いていたでしょう。
「年々歳々花相似たり・歳々年々人同じからず」
 出撃特攻各隊の隊長は陸軍士官学校・陸軍航空士官学校第五十七期の同期
生であり、只今もその凛々しい雄姿が目に浮かんで居ります。生き残った我々も
既に白髪齢今や九十歳、元気に動ける者は数少なくなりましたが、出来る限り慰
霊の誠は捧げる所存で居ります。
 終になりましたが、昭和五十二年十一月十五日の第一回特攻慰霊祭以来、戦没
者奉賛会を組織されて慰霊顕彰を続けてこられた都城市の皆々様の御厚情に深
く感謝申し上げると共に、何卒今後もこの事の御継続をお願い致します。
 これをもちまして慰霊の辞と致します。
                         平成二十五年四月六日

                      陸軍士官学校第五十七期生会
                      九州山口地区代表世話人
                      福岡県偕行会 会長
                          菅 原  道 之